【孤独と淋しさを感じること】
さて、昨日「人間は根源的に孤独だ」と思うと書きました。
孤独に付随してある感情がでてきますよね。
「さびしい」 と。
この「孤独だ」と感じた時「さびしい」と感じるから、つながりたくなるのではないでしょうか?
人は、ひとりでは生きられないから、その防衛反応として「さびしい」とかんじるのではないでしょうか。
さびしいには二つかんじがありますね。
「寂しい」「淋しい」どちらの漢字を使いますか?
受けるニュアンスが違いますよね。
調べてみると
寂しい は常用漢字で、ひとけがない寂れた雰囲気を表し
淋しい は、自分の置かれた状況を悲観的にとらえているのを表しているそうです。
では、「さびしい」と感じるのは悪いことなんでしょうか?
「さびしい」と感じた時、体のどこかで嫌〜なものを感じませんか?
どの辺りに感じますか。
コーアクティブ・コーチングでは、よく
「感じてみて〜〜」とコーチが言います。
体で感じることの大切さは、自分の無意識とつながることができるからです。
うわべでない本来の自分とつながります。
「さびしい」をきゅ〜〜んとした痛みとともに感じるので、誰かとつながりたくなるのでは、ないでしょうか。
逆に、「さびしい」という気持ちを嫌なので、感じないように封じ込めるとどうなっていくでしょうか?
私は、「さびしい」の代わりに「空虚」「虚無」がそこを埋めようとしてくると思うのです。「むなしさ」です。
ミィヒャエル・エンデの作品で「ネバーエンディング・ストーリー」というのがありますが、そこに描かれているのは「虚無」との戦いです。
私には、「さびしい」より 「虚無」に支配される方が、よっぽど怖いです。
だから、私は、「さびしい」と自分の痛みを感じて、「つながりたい」と魂が温かいものを求め、行動につながっていくのだと思ってるのです。
「さびしい」と感じることは悪いことじゃないとおもいます。
『アタマでは、理解できても、腑に落ちていないんです』
ええ、
だから、感じてみてください。
良い悪いという評価判断を脇に置いて
自分の痛みを痛いと感じることが大切なのではないでしょうか。
まずは、本来のあなたに、つながりましょう。